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もう一つのニーズがあるからと言って最初のニーズは帳消しにならない。(「ノー」を愛するプロジェクト・その4)

もう一つのニーズがあるからと言って最初のニーズは帳消しにならない。(「ノー」を愛するプロジェクト・その4)

わたしは自分の中にある「ノー」を帳消しにしてしまうことがあります。

それはどんな時かというと、その「ノー」の奥にあるニーズとは別のニーズとつながってその別のニーズの美しさに繋がった気に「ノー」の奥にあるニーズを置き去りにしてしまうのです。

具体的な例を挙げると、誰かから頼まれごとをしたとします。

そして、頼まれた時に自分の中に出てくる反応は「嫌だな~」という反応だったりします。

この「嫌だな~」は「イエス」か「ノー」かのどちらかにざっくり分類すると「ノー」になります。

この「ノー」の奥にあるニーズは休息とか気楽さのニーズだとします。

さて、この「ノー」の奥にある「休息」や「気楽」さのニーズとは別のものが自分の中に出てきたとします。

例えば、「この人には普段からお世話になっているし、ここで普段のご恩をお返ししないと」とか、「ここでこの頼まれごとに応じることで、この人の活動を応援することができる」とか。

それぞれの奥にあるニーズは、「感謝」とか「意味」かもしれません。

そして、自分が内在化している世間の目から見ると「ご恩をお返しする(感謝)」や「相手を応援する(意味)」という動機は「自分が休みたい」とか「気楽さがほしいとか」そういう動機よりも認められやすいと思っていたりもします。

「自分が休みたい」と思うとそれに対して、「怠けてないで働きなさい、今までどれだけお世話になっていると思うの?」という自己ツッコミが入ります。

「気楽さがほしい」という声には「あなたの気楽さよりもこの人のやっていることの方が遥かに世界への貢献になるんだから、応じなさい!」などの義務感からくる自分への説得の声が起きたりします。

そうすると、世間の価値観を内在化してしまっている自分は、相手に応じることの方が世間的に認められやすいので、「嫌だなー」という考えが自分に説得されてしまうと同時にその奥にある「休息」や「気楽さ」を手放してしまうのです。

一方のニーズをもう一方よりも大事にした時に、もう一方のニーズがあたかもないかのように振る舞ってしまうのです。

それがもう習慣になってしまっていて、常習的に顧みられていないニーズが自分の中でごろごろしているような気がします。

「ノー」を愛するプロジェクトは全ての命を大切にしようとする試みの中で特に見落としがちな「ノー」の奥にあるニーズを丁寧に見ようと思って取り組んでいます。

そしてその入り口として、自分の中の「ノー」についていろいろ考えていた時に思いついたことを今日は書いてみました。

みんなは別のニーズを見つけた時に、元々あったニーズを帳消しにしてしまうことはありませんか?

これを読んでどんな感じがするでしょう?


2022/11/28 No.149から

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