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「べき」や「ねばならぬ」がない世界(その2)

「べき」や「ねばならぬ」がない世界(その2)

自分が「べき」や「ねばならぬ」を主張している時、実は個人的な無力感を感じている場合があるのではないかと最近思っている。

たとえば、森林を伐採しようとする計画があったとする。

それに対して、「森林を伐採するべきではない!」と叫びたい時、本当は森林を伐採してほしくないのは自分なのに、世間的に森林を守ることは正しいことなので相手は従うべきであると主張しているのではないか。

その時、自分個人の望みに影響力があるとは思えないので、「世間的に正しいことだ」と主張することで自分の外にある力を借りて相手を説得して行動を変えようとしているのではないかと最近考えている。

それは自分の命であるニーズの価値を認めることに苦労している自分ならではの現象かもしれないけれど、もし自分の命に価値を認めることができるならば、「次の世代に自然を残したいと願っている。

この森を大切にしたいので伐採しないでもらえないだろうか」という言い方もできるのではないだろうか。

「べき」や「ねばならぬ」をいうことと自分自身の無力感についての関係に興味がある。

仮説なので、全然見当違いな可能性もあるのだけど、みんなはどう感じるだろう?


2022/8/19 No.41から

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